葛藤とは、自己実現を追求する際に、
自分の意味と価値が相手の意味と価値と対立したり衝突することを指します。
追求する意味と価値が互いに異なるだけなのに、
相手のものは間違っていると考えるから葛藤が発生します。
この時、自分の考えは唯一自分だけの考えであり、
相手の考えは唯一相手だけの考えです。
自分が追求する意味と価値に対する考えが、
相手が追求する意味と価値に対する考えと異なる当然で、
その考えが自分と同じ人は一人もいません。
人間は自分の意味と価値を実現するときに
自分の考え方(思考)の基準を持つようになりますが、
この基準が自分と同じ人は全世界で一人もいません。
唯一自分のみ持っている自分の基準です。
意味と価値に対する自分の基準と相手の基準が異なる事実は分かっていても、
自分の基準を相手に適用するようになると、
相手の基準が異なるものだと認識するのではなく、
相手の基準は間違っていると認識してしまいます。
これは自分の基準を適用することで現れる現象です。
そのため人間関係において
人間として生き、意味と価値を追求するときに
自分と相手が同じでない場合、
相手の基準は間違っていると話すようになります。
すると対立するようになり、衝突しながら葛藤が生じ始めることになります。
また自分が自己実現を追求するときに、
相手と無関係で相手に関心もないとすれば、
自己実現の基準を適用する必要もなく、
相手は異なる基準を持っていると認識するだけで、
対立と衝突は発生しません。
したがって葛藤というのお互い関心を持っている人間関係でのみ生じるものです。
関心を持っている相手と葛藤が生じると、
男性はストレスを、女性は傷ができます。
結局、愛する相手、または関心を持っている相手とは葛藤は生じるしかないのです。
葛藤は自分の考え方(思考)の基準によって生まれます。
自分の思考基準は自分の記憶をベースにして作られ、
その基準に確信を持ちます。
そしてその基準に沿ってすべてを判断し決定するようになります。
相手は「~するだろう」と確信を持つことは本当は正しくない考えですが、
これを正しいと考えて、
自分と相手の思考基準が同じであるべきだと認識をします。
結局、葛藤とは双方に何の非もないにも関わらず、
双方が相手が間違っていると主張してそれに確信をもつことで発生するのです。
このように葛藤というのは自分自身が作り上げるものです。
自分の思考基準によって形成されるのです。
互いが異なる基準を持って人間として生きるとき、
調和と秩序に反すると生じるのが葛藤です。
人として自分だけの幸福を追求するのは誰もが有する権利です。
また共に生きていく人間として自分と他人と共に意味と価値を追求していくことは
誰もが有する義務であります。
すなわち人間としての自己実現は、他人と共に生きていく時の義務なのです。
このように自分の自己実現を追求するとき、
人としての権利と人間としての義務を持って生きていくのが私たちです。
自己実現を追求する際、
自分と相手の思考基準が異なるということを知らなければなりません。
これが理解であり、理解は自分をヒーリングさせてくれます。
相手に関心を持って、相手の思考基準が自分と異なることを知るためには、
まず自分の思考基準を知るべきで、次に相手の思考基準も知らなければなりません。
相手の基準を正確に知る前に、
相手の表現だけを見て自分の基準で推測すると問題が発生します。
相手の表現に対して「きっと○○だろう」と自分の基準に沿った判断に確信を持ちます。
この判断が正しい確率は10パーセントにも満たないにも関わらず、
100パーセントだと確信するのです。
特に自分が関心を持っている身近で愛する関係であればあるほど、
その判断が正しい確率はさらに下がり1パーセントにも満たない場合がほとんどです。
家族関係の場合は0.01パーセント以下です。
また仕事上の関係や目的関係における人の場合でも正しい確率は10パーセントにも上りません。
したがって自分の知的能力がいくら高くても
相手の思考基準を推測するときにそれが正しい確率は10パーセントを越えることはあまりないのです。